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2012-03-11 えてふえて、すききらい

今日は「おもてなし」という言葉をぼくが嫌いな理由について書こうとしていた。でも、それはやめて「得手不得手」と「好き嫌い」の関係について書こうと思う。

その前にぼくが書こうとしていた「おもてなし」の話について簡単に説明させてほしい。

先日、某所での講演で「おもてなしとは相手を思いやることが大切なのだ」という話を聞いた。おおざっぱなまとめかたではあるが、おおよそのところそういうことらしい。

講演は正直なところ面白くなかったし論理としてもイマイチだったが、言おうとしていることを正しいと仮定すると納得できるところがあった。ぼくはおもてなしが苦手であり、相手への思いやりもまたぼくの苦手とするところだということだ。

「おもてなし」という言葉は人気があるし、それを嫌いであると否定するところから書きはじめれば、理由が気になるはずである。そこに適当な煽りでも入れながら上記のような理由を書いてまとめよう……これが当初の考えだ。

しかし、書いていて自分が嫌になってきた。

書き出しとして選んだ「おもてなしが嫌い」を「思いやりが苦手」という理由で説明すると「苦手だから嫌い」となる。書いているうちにこのことに気がついて、嫌になった。同時にぼくが昔からちっとも成長していないことにも気づかされたからである。

ぼくは苦手なことを避ける傾向にある。おそらくぼくだけではなく他の多くの人がそうだと思う。

例えば、ぼくには小さいころからの嫌いな食べ物がある。それが「きゅうり」である。あの独特のうりくささが苦手で、ぼくはきゅうりが嫌いなのだ。口に含んでいると吐き気がするのだ。ぼくはいつもきゅうりをはねて食べる。かっぱ巻きなどハズレもいいところである。

それでも小さいころは親に怒られながらがまんして食べていた。

親はなぜ無理にでもぼくに食べさせようとしたのか。いろいろなものをバランスよく食べないと栄養が偏り体に悪いという考えからだろう。苦手なものを無理にでも食べさせるのは、嫌いだからといって食べずに居たらいつまでたっても苦手なままと考えたからだろう。

苦手を克服するためには、嫌いであっても避けてはいけない。これは自然な考え方であり、現実には難しい問題である。「嫌う」という言葉自体が、あるものを好まず、避ける傾向にあることを表していたはずだ。嫌いだけど避けないのは例外である。避けられない理由があって仕方なくそうしているに過ぎない。

「おもてなし」の話を書いていて、避けられない理由がある(仕事である)はずのおもてなしを、避けようとしていることに気づいた。ぼくはがまんのできない人間である、恥ずかしい人間であると宣言しているような気がしてきて、自分が嫌になったのである。

視点を変えてみよう。

「嫌なことを避けてはいけない」のだろうか。

きゅうりの話で例えれば、嫌いなきゅうりを無理に食べさせるのではなく、味付けでごまかすとか、分からないように料理に組み込むとか、ほかにも対処法がある。これは嫌いな状態(うり臭い)を避けることで苦手を克服していることになる。

苦手を克服するための方法として、嫌いを避けない方法をとらず、嫌いを避ける方法をとっているのである。これは良いアプローチだと思う。

さらに視点を変えてみよう。

そもそも苦手を克服すべきなのだろうか。

きゅうりを食べなくても、きゅうりからとれる栄養素を他の食べ物からとればいいのではないか。そもそもきゅうりはほとんど水である。あとはせいぜい少量のビタミンくらいだろう。好きなもので補えればそれでいいではないか。

最近はこのあたりの考え方が世間的にも変わってきている気がしている。

苦手を減らすより、得手を増やすべき。そんな考え方の人も居る。高い専門性を求められると、後者の得手をより増やす方に舵を切ることも多いのではないだろうか。場合によるが、このアプローチも案として検討はすべきだと思う。

さて、おもてなしについてはまた考えないといけないが、今日のところはこのくらいにしようと思う。最後に言えることは「いまだにきゅうりははねて食べているあたり、ぼくが成長していないことは認めざるを得ない」ということだ。

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