2025-07-18 チームの決定にしたい
疲れている。
論理的でなく、経験則的、感覚的、感情的なことを断定的に書く。読まなくていい。
厳密には誰か一人の決定・責任になるとしても「その人の決定」ではなく「チームの決定」にしたいとぼくは思う。
チームの決定でないとき、その人とそれ以外の間には距離が生まれると考えるから。その人が決めたから、その人の責任だから。壁・溝・距離。決定者の孤立。
チームの決定でないとき、自分で考えなくなるから。考えたって結局その人が決めるんでしょ。考える意味ないじゃん。仕方ない。諦めよう。そういうもの。いびつな力関係。思考停止。
↑は論理としては正しくなく、飛躍がある。でも、経験則的には、意識しないとそういう力が働きがちだと感じる。人間は論理だけでは動かない。機械じゃない。感情で動くこともある。……というか感情で動くことのほうが多い。
どうすればチームの決定になるのか。
満場一致ならいい。問題はそうでないときだ。「全員の意見がいつも完全に一致する」なんてことはありえない。それでもすり合わせようとした、互いの意見を組み込もうとした。時間などの制約の中で最善の判断を目指そうとした。そこに対して一定の「納得感」を持って、自分の意見ではないけど、それで行こう。これを「チームの決定」だと合意する。
肝心なのは「納得感」だ。これは論理じゃなく感情ということだ。できるだけのことをやった上での「仕方ない」には納得感がある。できるだけのことをやった上での「その人が決めたから」には納得感がある。「チームの決定としていい」と感じる。納得感がある。
こういうプロセスのベースには、チームのメンバー間の関係性・信頼性のようなものがある。そういうものがなければ「すり合わせようとした」も「互いの意見を組み込もうとした」もポーズに見えるし、理由づくりに過ぎないように見える。
関係性・信頼関係というのはパッとできるものじゃない。強引に力任せにできるものではない。むやみに疑うべきではないが、疑いたくなる感覚を否定すべきでない。信じるべきだが、信じることを強制すべきでない。構造を整えて、ゆっくりと時間をかけて自然とできあがるものだ。つくるというよりはできるものだ。
今日のコミット。