2016-10-20 話すこと書くこと
発表資料をつくっている。それに関連した「書く」「話す」への雑感を書く。
「ぼくみたいな低能が Kyoto.js に足を運ばれるような御方の前で話せることなど……」と思ってはいる。また「 20 分も話すことがないよ……」とも思う。だけど実際に資料をつくりはじめると、今度は逆に尺が長くなって収まらなくなる。どこを残しどこを切り捨てるのか。残ったそれをどう表すのか。そういう抽象化ができないから、いままさに低能なんだけれども。
自虐はやめよう。
最近は話を聞きながらメモをとることが多い。
昔から多いかもしれない。前職・新入社員時代に実質 OJT 担当だったパートナー企業の社員さんに「メモ魔」と言われたことがある。そんなつもりはなかったが、メモ帳をトイレ以外は常に持ち歩いていたし、ペンはスーツの上下に二本は持っていた。もちろんかばんにも二本が入っていた。ペンが書けなくなったときのストレスがすごかったからだ。
脱線した。すこしとりかたを変えたから「最近は〜多い」と感じるのかもしれない。
メモがどんどん「覚」書になっている。覚えるために書く。あるいは覚えるべき「要点」を見出すために書く。とにかく話で気になったものを書く。単語を書く。話のつながりを矢印で表現したり、繰り返された単語を丸や下線で強調する。「社会人の基本」と言われるときのメモは要点のみを簡潔に記録すべきなのだろうけど、ぼくのはすこし違う気がする。要点が分からないし、要点を見出すまで単語を覚えていられないから書く。雰囲気は「マインドマップ」のようだ。あるいは「ワードクラウド」か。単語間のつながりを表すグラフかも。
大筋に戻す。なぜメモのことを書いたかというと「話す」ことと「書く」ことの密度の差が気になったからだ。
密度?密度。時間あたりの言葉の量。空間あたりの言葉の量。
書くより話すほうが時間あたりの言葉の量が多い。早い。短い時間にたくさんの言葉をつめこめる。だけど、理解は追いつかないかもしれない。だから書く。メモをとる。スライドを見せる。
話すより書くほうが空間あたりの言葉の量が多い。長い。そもそも書かないと残らない。録画・録音などは扱いが難しいのでいまは考慮しない。書くと長くなる。でも残る。追える。スライドは残る。
最初の話に戻る。尺。時間に対して、どう話すのか、どう書くのか。それを合わせたものをどう感じるだろうと考える。難しい。
このあたりを発表資料や業務でのふわふわした議論のメモをとる過程で感じた。雑感。